言語化出来ないエモさについて

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わたくし昔から文章を書くことが好きでして、小さき頃は調子に乗って詩を書いたり、遠き土地に住まう友へ手紙を書いたりといったことをしておりました。

幼い頃は知り得る語彙の数が少ないせいか、はたまた感受性が豊かであったからか、自身の気持ちをうまく言語化できないことへのウズウズ感をしばしば感じていた記憶がございます。

感じたことや考えていることを上手く言語化できないことへのもどかしさを感じるとともに、ある種のエモさも同時に感じていたような気がいたします。

言葉で表せないこの気持ち、こんな感情があっただなんてというこの世に対する感激、言語化せずとも伝わっているような気がするテレパシー感、、、

幼い頃にはそういったことをよくよく感じておりました。では現在はどうかというと、全く無いとは言い切れないものの、頻度としてはかなり少なくなっております。

恐らくそれは、知り得る言葉の数が増えたこと、そして自身の知り得る言葉だけで完結させるようになったこと、これら2つの要因が絡んでいるように思うのでございます。

語彙数というのは生きていると自然と増えていくものでありましょうし、それはとても素晴らしいことだとも思っております。知っている言葉がたくさんあると、その分豊かに生きられるような気がするのは私だけでございましょうか。

それとも関連いたしますが、感情や考えを言語化しようと思えば、既に知っている語彙を使うほかありません。なにか複雑な感情を抱いていたとしても、自身の知る何らかの言葉で言い表すことができれば、それで満足してしまうことは多分にあるかと存じます。

私は高校時代、現代文が最も好きな授業であったのですが、その授業のなかで「実感する」という語彙は非常に便利な言葉だと教えられた記憶がございます。そのせいか現在私は「実感する」という言葉に多くを委ね、その語彙を使用することにより言いたいことを言い表せた気になることがしばしばあります。

こういったことが積み重なり、かつて幼い頃に感じていた「言語化できないことへのエモさ」を失いつつあるのでございましょう。

自身の成長を感じさせられるとともに、少しの虚しさも感じさせられる事実でございます。

今後より多くの語彙を取り扱うことができるようになれば、自身の抱く感情や考えそのものにより近い形での言語化が可能となり、それらを他者と共有し、もっと幸せを感じられるやもしれません。

そんな期待を込めながら、明日からも地道に生きてゆきたい所存でございます。

それでは皆様ごきげんよう

 

ヒラツカアキコ